


創業以来、変わらぬ志で。
社会に求められる変化に挑戦し続けていく。
明治5年(1872)、福岡県飯塚市の石炭採掘から
麻生グループは歩みをはじめました。
明治から大正へ、日本が変貌を遂げていく中で、
地域の産業基盤となる石炭を採掘し、
電力インフラを整え、医療設備を拡充。
戦後の苦境にあっても、
石炭からセメントへと柔軟に移行し、
未来を豊かにするために、
医療福祉・教育分野にも注力してきました。
初代社長・麻生太吉の家訓、
「程度大切、油断大敵」の精神を重んじ、
「地域社会への貢献」という創業以来の志を忘れず、
私たちは、150年という時を紡いできたのです。
150年の歴史は、
1つの鉱山からはじまった。
麻生グループの歴史は、明治5年(1872)に麻生太吉が福岡県飯塚市で創業した、石炭採掘からはじまりました。産業革命以降の日本の土台ともなった炭鉱業は、明治中期頃には機械化が進み、それに伴って炭鉱の規模も拡大していきます。明治27年(1894)には、日清戦争が勃発。戦争後の日本には好況期が訪れ、石炭価格上昇の恩恵を受けて、麻生グループは発展を遂げていきました。
●明治5年(1872)
麻生太吉、目尾御用山(飯塚市目尾)にて
炭鉱業に着手
●明治22年(1889) 4月
鯰田炭鉱を三菱社へ譲渡
●明治27年(1894) 5月1日
忠隈炭鉱を住友家へ譲渡
●明治29年(1896) 3月4日
㈱嘉穂銀行設立。麻生太吉頭取就任。
●明治30年(1897) 4月
麻生太吉、九州鉄道㈱取締役就任
●明治33年(1900) 10月29日
麻生太吉、若松築港㈱取締役就任
●明治41年(1908) 10月31日
嘉穂電灯㈱設立。麻生太吉社長就任
●明治43年(1910) 5月
嘉穂電灯㈱営業開始し、飯塚に筑豊初の電灯がともる
石炭から電気を生み、
地域の暮らしに貢献する。
火力発電に代表されるように、石炭と電気には密接な関係があります。大正2年(1913)、麻生太吉は九州水力電気株式会社の取締役に就任。そして、麻生グループの社内診療を行っていた「飯塚病院」を一般向けに解放するなど、地域の社会基盤を構築するために、多角的に事業を展開していきます。
●大正2年(1913) 6月
麻生太吉、九州水力電気㈱取締役就任
●大正4年(1915) 10月16日
麻生太吉、博済無尽㈱取締役社長就任
●大正9年(1920) 8月23日
麻生炭鉱病院を私立飯塚病院に改称し、一般郡民に診療解放
●大正11年(1922) 10月5日
麻生太吉、九州産業鉄道㈱社長就任
●大正11年(1922)
麻生太吉の弟・太七が中心となり㈱中座を開場
(昭和8年(1933)嘉穂劇場となる)。
世代を超えて、
苦境を超えて。
昭和8年(1933)、麻生太吉が逝去。彼の孫である太賀吉が、麻生グループを引き継ぐことになります。厳しい戦中、戦後の不況を経て、往事において中核事業であった炭鉱業は外国産との価格競争に敗れて多くの国内の炭鉱は閉山となっていきました。太賀吉は石炭に代わるグループの中核事業としてセメント業に力を入れることで、麻生グループは大きな転換を果たします。
●昭和3年(1928) 5月27日
麻生太吉、麻生家家訓「程度大切、油断大敵」を創定
●昭和5年(1930) 10月8日
麻生太吉、九州電気軌道㈱取締役就任
●昭和9年(1934) 2月1日
麻生太賀吉、産業セメント鉄道㈱社長就任
●昭和14年(1939) 3月30日
九州帝国大学理学部創設基金を寄付
●昭和44年(1969) 4月30日
麻生最後の炭鉱である吉隈鉱業所閉山
●昭和48年(1973) 5月28日
麻生太賀吉、麻生セメント㈱会長就任。麻生太郎、社長就任。麻生泰、監査役就任
●昭和48年(1973) 10月1日
㈱麻生地所、吉隈炭鉱跡地に麻生飯塚ゴルフ倶楽部オープン
●昭和54年(1979) 12月1日
麻生泰、麻生セメント㈱社長就任
●昭和57年(1982) 4月1日
飯塚病院、当時私立病院として最大規模となる救命救急センターを設置
●昭和60年(1985) 4月12日
第1回飯塚国際車いすテニス大会開催。麻生泰、大会会長として運営を全面支援
●昭和60年(1985) 12月14日
麻生開発㈱、筑豊地域初のアイススケート場である飯塚アイスパレスオープン
●昭和61年(1986) 4月1日
麻生塾、福岡市に麻生電子ビジネス専門学校開校(平成15年(2003)4月麻生情報ビジネス専門学校に改称)。専門学校グループとして第一歩を踏み出す
福岡から世界へ。
さらなる他業種への挑戦。
麻生グループはラファ―ジュ社(仏国)との共同経営やM&Aを通じた他業種への進出、海外への不動産投資などに業容を拡大しました。また、飯塚病院でのTQM(業務改善)活動や病院コンサルティング事業への進出など、病院の経営改善を通じた医療事業を新たな中核事業として成長に取り組みました。また、オックスフォード大学(英国)やハーバード大学(米国)など既存の教育事業に加えて海外の大学機関との協力関係を推進しました。
●平成6年 (1994) 2月19日
飯塚病院、第一回TQM(業務改善)活動発表大会開催
●平成11年(1999) 11月
麻生セメント㈱、病院コンサルティング事業部設置
●平成12年(2000) 6月1日
麻生グループ21世紀ミッション「社会システム変革への貢献」を発表
●平成13年(2001) 8月1日
麻生セメント㈱による㈱麻生への改称に伴い、セメント事業を麻生セメント㈱に分社。ラファージュ社(現ホルシム社)が麻生セメントに資本参加
●平成17年(2005) 4月1日
飯塚病院、地域医療支援病院に指定
●平成17年(2005) 5月
㈱チャレンジド・アソウ、障がい者アスリートを支援するシーズアスリート設立
●平成19年(2007) 10月30日
オックスフォード大学(英国)と連携し、麻生オックスフォード大学院ニューカレッジ奨学金を設立。
●平成22年(2010) 6月29日
麻生泰、㈱麻生会長就任。麻生巖、社長就任
●平成23年(2011) 3月14日
東日本大震災の被災地へ1億円の支援を決定。グループ企業法人から義捐金を募り日本赤十字社を通して寄附
●平成24年(2012) 4月1日
グループ社員を対象に、無料の英語研修プログラムを開始
●平成27年(2015) 10月1日
麻生グローバルイングリッシュ・プログラム設立。飯塚市で小中学生を対象に英語学習機会を無償で提供開始
●平成30年(2018) 7月18日
飯塚病院、開院100周年記念式典・祝賀会開催
●平成31年(2019)
麻生グループのインターン受け入れ体制やインターンシップの内容が評価を受け、オックスフォード大学よりGold Standard Internship Host Awardを受賞
多様化する環境において、
さらなる社会への貢献に
挑戦をしていく
現在の麻生グループは、建築土木や出版、セメント製造、ソフトウェア開発に加えて、病院経営や専門学校の運営など様々な事業を行っています。㈱麻生においても飯塚病院の経営や病院コンサルティング事業などの医療分野だけでなく、麻生グループ他法人への経営支援やM&A事業に取り組んでいます。筑豊の炭鉱から始まった麻生は、変化と挑戦を恐れず、今後も社会システムへの貢献を旨に企業活動を続けていきます。
●令和3年(2021) 9月3日
東京パラリンピックにてシーズアスリートの選手を含む
ゴールボール女子日本代表が銅メダル獲得
●令和4年(2022) 7月
ららぽーと福岡に開業したキッザニア福岡に、
「病院」パビリオンと「専門学校」パビリオンを出展。
●令和4年(2022) 10月4日
飯塚病院、国内外を含め医療機関で初となるデミング賞を受賞
●令和5年(2023) 2月1日
『麻生百五十年史』刊行
社会システム変革への貢献
明治年5(1872)に麻生太吉が筑豊で炭鉱事業に踏み出した後、
近代明治の幕開けから大正を経て、激動の昭和、多様な平成、そして今日に至るまで、
この国や社会の求めるモノは大きく変わってきました。そして、また変わり続けています。
麻生グループも昭和40年代における炭鉱閉山という存亡の危機を
『黒(石炭)から白(セメント)へ』をスローガンに、関わる全ての方達の努力と協力のもとに乗り越え、
医療や教育、海外への投資といった更なる変化に挑戦しています。
筑豊は自然から多くの恵まれた環境を与えられている反面、
少子高齢化や緩やかな人口減少といった日本全体が直面する変化に、
より先駆して取り組んでいる地域でもあります。
大都市より早くに地域企業としてのテーマを与えられたことによって、
我々は社会から必要とされるサービスを提供し続けられるよう、
多くの地域に先んじて努力を積み重ねてきました。
日本の社会構造と競争力が劇的に変化をしようとしている今後の数十年に対して、
人口密集地域では得られなかった経験とノウハウ、危機感を生かして更なる成長を目指す事は
我々の大きなテーマです。「会社(職場)」とは働く人間にとって幸福と成長の場であり、
地域にとって必要とされるサービスの提供者であり、世の中をより良くする為に、
国に勝るとも劣らない存在だと感じます。『社会システム変革への貢献』を旨に、
継続して経営を行う企業を目指し、今後も活動の場を広げていけるよう努力を続けて参ります。